古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった!本ダウンロード無料pdf

古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった!

によって 長浜 浩明


4.9 5つ星のうち(26人の読者)

古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった!本ダウンロード無料pdf - 内容(「BOOK」データベースより) 「大阪平野の発達史」が明かす古代史の真実、「男子は皆黥面文身す」が邪馬台国論争に黒白をつける、「皇紀」を「西暦」に直すと古代史が見えてくる、「韓国の前方後円墳」が覆す騎馬民族渡来説―混迷する古代史界に正気を取り戻す。 著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より) 長浜/浩明 昭和22年群馬県太田市生まれ。同46年、東京工業大学建築学科卒。同48年、同大学院修士課程環境工学専攻修了(工学修士)。同年4月、(株)日建設計入社。爾後35年間に亘り建築の空調・衛生設備設計に従事、200余件を担当。資格:一級建築士、技術士(衛生工学、空気調和施設)、公害防止管理者(大気一種、水質一種)、企業法務管理士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった!の詳細

本のタイトル
古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった!
作者
長浜 浩明
ISBN-10
4886563694
発売日
2012/4/1
カテゴリ
ファイルサイズ
29.72 (現在のサーバー速度は23.82 Mbpsです
以下は 古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった! の最も正直なレビューです。 この本を読んだり購入したりする場合は、これを検討してください。
著者は日本書紀に書かれた神武軍の進路(河内湾における川の遡上による白肩之津への上陸)が、縄文晩期~弥生中期の大阪湾の地質学的状態「河内潟の時代」と一致していることを根拠にしており、古田武彦氏の説明よりも格段に詳細になっている。これは現時点において最も有力な根拠といえる。ただ、疑問な点は、実年代の決定において炭素14年代測定法の測定誤差がどの程度かということ。計算された数値±10年なのか±100年なのか、それによっては紀元前が紀元後になる可能性もあるのではないか。河内潟の実年代が約3000年前~2000年前というのではあまりにも大雑把すぎる。神武東征伝承を史実として確信はするが、紀元前70年は実年代として古すぎると感じる。また、紀年が引き延ばされている理由について、著者は古田氏や安本美典氏と同じく春秋年を挙げておられる。しかし、偶然私が読んだ在野の古代史家、竹田昌暉氏が「1300年間解かれなかった日本書紀の謎」という本で次の様な注目すべき見解を述べておられる。まず、那珂通世博士の業績を踏まえ、書紀の編者が百済記の記載及び神功皇后の新羅出兵の事績との整合性から阿華王薨年(405年)を干支を変えることなく120年繰り上げて書記年代の応神16年(285年)とした。また別の理由として、第八次遣唐使が中国の史家から卑弥呼について問われて日本の歴史上誰なのか明らかにする必要に迫られ、書記の編者が神功皇后を当てることとした。さらに倭の五王が中国の皇帝に朝貢したという宋書の記述と照らし、允恭天皇以後は紀年の延長がないこと及び日本書紀の編者が日本の王が中国皇帝に朝貢したことを認めたくなかったことから、履中天皇五年(405)から允恭天皇崩御(453年)までの48年間を上代に拡散させるために紀年を正確に3.5倍するという年代操作をしたと結論した。(120+48)÷48=3.5)少なくともこの期間の紀年延長については、竹田氏の方が春秋年を根拠として歴史年代を推計するよりも明確だと思う。なお、長浜氏は、書紀の編者が西暦を知っていたことは絶対にあり得ないと主張しておられるが竹田氏は反対の見解を採っている。キリスト教はペルシャ経由で七世紀の前期には伝道団が長安に来ていた。唐では景教と呼ばれており、遣唐使節はその漢訳を手に入れていた。その知識を基にして、書紀の編者はまず景初三年が西暦239年に相当することを突き止め、神功皇后の朝鮮出兵を西暦200年に決め、西暦201年を神功元年とした。したがって、神功紀年が西暦の下2桁に一致しているのは偶然ではないという驚くべき結論を引き出している。他にも竹田氏は三国志呉書には、呉の滅亡前夜建業から2万の呉の大軍団が一夜にして消えたと書かれている。それが船で黒潮ルートに乗って日本列島に到着し、逆に日本側の古伝承では呉からの渡来人が日向と河内に上陸したことが伝えられている。天孫族とはこの渡来の呉軍の末裔であり、神武天皇もその一族であるとする。呉鏡である画文帯神獣鏡の出土状況が宮崎、熊本、広島、岡山、兵庫、奈良、大阪、三重と神武東征ルートと一致していることが、東征が史実であったことの証拠であるとして、長浜氏とは異なるアプローチの仕方を採っている。ただし、長浜氏の説明で注目すべきは、魏志倭人伝に書かれた倭人の鯨面文身の風習を一つの根拠として邪馬台国の所在地が九州であるとすること。私の考えは現時点では,安本美典氏の見解を概ね支持する。すなわち①鉄器及び大型の漢式鏡が圧倒的に北部九州から出土していること(三角縁神獣鏡は魏鏡ではなく倣製鏡)及び②記紀によると銅鐸の記述がなく神武東征として九州の勢力が近畿に移動していること、③筑後川流域には山門の地名があるが、近畿には国号のヤマト(大倭)はあるが地名としてのヤマトはないことから九州説を支持する。竹田氏は箸墓古墳を根拠に近畿説を主張している。また「豊葦原」の意味が「貴重な褐鉄鉱(スズ)を生む母なる葦原」ということでこれは初めて知った。さらに銅鐸が消失した理由を近畿地方での鉄の産出にあるとしているが、これは神武東征(または邪馬台国東遷)により銅矛銅剣文化圏が銅鐸文化圏を滅ぼしたことによるとする通説と異なり私自身再考を要するものである。因みに竹田昌暉氏も理系の人であり、以前から古代史を科学的視点から観る必要性を感じていた。これにより文献史学の弱点を補うことができる。以上概略ではあるが著者への若干の疑問を述べさせていただいた。

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